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信州味噌の歴史

信州味噌の歴史
日本一の信州味噌
室町以前
味噌は昔から生活には欠かせないものでした。記録にはないようですが、山国信州では食塩を味噌にして貯蓄したと思われます。伝統のみそ玉味噌は、標高が高く湿度が低い信州の条件にピッタリでした。今でも一部の地域では、乾燥した春先にみそ玉味噌を造っています。

戦国時代
信濃の国の大部分が甲斐の武田氏に支配されました。両国とも海がないため、塩は貴重でした。武田信玄は塩の備蓄のために味噌造りを奨励しました。信州はもともと良質の大豆や米がとれ、昼夜気温差の大きい内陸気候も味噌造りに適していたので、信玄は積極的に信州の味噌を買い上げ、兵糧を確保しました。

江戸時代
農家も商家も武家も、基本的には味噌を自家醸造しました。味噌を買うのは家の恥とみなされました。しかし大名行列などで一度に大量の味噌が必要な場合は、買わざるを得なかったといいます。また飯山、上田、飯田などの城下町には味噌の販売を生業とする商店があったようです。

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明治時代
殖産興業の政策が進められると、都市には工場ができ、労働者が集まるようになります。彼らは味噌を自家醸造せず、買うようになりました。これにより、味噌の産業化が始まります。上田からは、かつて参勤交代の大名に好まれた味噌が、東京などに出荷されました。信州味噌が広まる第一歩です。
大正時代
長野県では製糸業などが盛んになり、大勢の工員を賄うために大量の味噌が製造されました。また関東大震災の際には、救援物資として味噌が送られました。このときの信州味噌の品質が評判になり、その後関東地方への出荷が更に多くなりました。

戦前
昭和の大恐慌により、製糸業から味噌製造業に転業する企業が多く現れました。もともと工員の賄い用に大量の味噌を製造していたので、容易に転業できたそうです。震災以降の県外出荷増大も、後押ししました。

戦後
戦後の統制時代が終わり自由経済に移行するなかで、長野味噌工業協同組合連合会が結成されました。これは県内各地域組合を組織化したもので、昭和25年に共同販売体制をつくり、販売ルートを設定し、製品と価格の一本化を図りました。これにより長野県の味噌生産量は全国シェアで20%を上回ることになりました。この共販体制が解消されたあとも、団体標章「信州味噌」の登録などを経て、信州味噌の出荷は更に増えました。

現在
平成16年度の信州味噌のシェアは、40%に達するまでになりました。技術的にも全国のトップレベルにあり、毎年開催される全国味噌鑑評会では長野県の蔵元が常連として名を連ねます。独自の研究機関「信州味噌研究所」では微生物が分離培養され、更なる品質向上のために研究が繰り返されています。一方で、昔ながらの職人技も継承され、伝統的な味噌造りも大切に守られています。

味噌神社
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長野市の長野県味噌工業協同組合連合会の敷地内にある味噌神社。味噌醸造の始祖といわれる臨済宗法燈派の開祖、法燈国師覚心和尚が祀ってあります。同敷地内には信州味噌研究所もあります。

参考文献:『みそ文化誌』みそ健康づくり委員会編